水掛け論の根っこにあるもの

合意への対話のはずが
溝は深まるばかり
#2

本体論の解体

夫婦で実家の話をすると、いつもこじれる。

話し合うと、お互い自分の意見を主張するばかり。
結局、話せば話すほど、溝が深くなってしまいます。

決めつけらてウンザリ・・・

知り合いのおばさんに、子どもの悩みを喋ったら、
ろくに話も聞かずに「あなたが悪い」と決めつけられました。
自分が子育てをしていた頃の常識ばかり並び立て、こちらの言い分は全く届きません。

そもそも、みんなが使っている「言葉」の意味って同じ??

例えば、会話の中で「学校」という言葉を使った時、それぞれが持つイメージって同じでしょうか?

※ 同じ「言葉」でも、
立ち上がるイメージは人それぞれ違う。

「言葉」の意味(認識)は使い手によって違う

全ての言葉には、一般的な意味とは別に、それを使う人の欲望や経験、状況に根差した、独自の認識が必ず含まれているのです。

妻の言いたかったことと、僕の解釈がズレていたのか

「妻の発している言葉」を「私の理解している概念」で受け取っていたけれど、もしかしたら、妻は全然別のことを言おうとしていたのかも知れないな。

私は話を聞いて欲しかっただけなのかも!

確かに、相手も私の意見を聞く姿勢がなかったけれど、思い込んでいたのは私も同じだったかも。

あの時は、ただ話を聞いて欲しかっただけだったんだわ。

素直にそう言えばよかった!

以下、「存在・認識・言語」についての哲学をご紹介します。

私たちと同じように、哲学者も「実際にあるもの、見ているもの、言葉」を巡って、長い間頭を悩ませているんですね。

水掛け論の根っこを解消

本体論の解体

世界=客観を正しく認識できる?

ヨーロッパの近代哲学と現代哲学をとおして、最大の難問である認識問題とは、世界=客観を正しく認識できるか、という問いです。

ギリシャ哲学以来、現代まで「認識問題」は、ギリシャのソフィスト、ゴルギアスの「存在と認識」の三つの論証から抜け出せていません。

ゴルギアステーゼ

(1)およそ存在を証明することはできない。それゆえ何ものも存在するとはいえない。

(2)仮に存在があるとしても、人間には認識(思考)できない。

(3)仮に存在が認識されたとしても、人間はそれを言葉にすることができない。

構図化すると

「存在」≠「認識」≠「言語」

存在・認識・言語はそれぞれ存在本質が異なるため、完全に一致することはない。

これがゴルギアスの「不可能性の「原理」の要諦です。

「存在本質が異なる」とは

役割や成り立ちがまったく違うということです。

存在は「あること」。
認識は「それをどう受けとめるか」。
言語は「それをどう言いあらわすか」。

例えば、目の前の木を、私たちはまず理解し、それを「木」という言葉で表します。

しかし、理解と言葉はすでに世界そのものとはズレています。
世界・認識・言語は、ぴったり重ならないのです。

似た「絵」を描くことができるだけ。

「言葉の世界の行き詰まり」

この「存在・認識・言語が一致することはない」という結論は、
私たちの理解や言葉は、つねに世界そのものとはズレを含んでいることを意味します。

しかし、それが間違った方向に拡大解釈されると
「普遍認識(いつでも誰でもどこでもわかる)」はできないという言説が生まれ、みんなでフェアに話し合いをする土壌を作ることができません。

本当のことと、わかっていることと、言っていることはズレる。

ここで、「認識の前提」について整理しておきます。

・世界は「それ自体」で存在している。

・その本当の姿を、正しく知ることが大事。

・主観(私の見方)と客観(本当の世界)が一致すればそれが真理。

つまり、まず「世界そのもの」があって、その後に、人間が認識する

私たちも、ゴルギアスを含むこれまでの哲学者たちも、世界をそう考えていました。とても自然な見方です。

この根本的な前提をひっくり返して、認識問題を解決する理論を打ち立てた人物がいます。ニーチェです。そのことの意味ちゃんと理解している人は、実はあまり多くはありませんが、とっても大きなパラダイム展開です。さあ、以下みていきましょう。

ふつう私たちは、「世界はまずそこにあって、私たちがそれを見ている」と思っています。
しかしニーチェは、まったく逆のことを言いました。

世界はそれ自体として「存在」してはいない。

まずあるのは、生きようとする「力」である。

ここでいう「力」とは、生きようとする生き物の身体の力(欲望) のことです。

この生きようとする力によって、世界は「解釈」されてできている。

それぞれが個々の世界を作っている。

例えば同じ犬でも、
• 犬が好きな人には「かわいい」
• 噛まれた経験のある人には「こわい」

同じ対象なのに、世界の見え方は違います。なぜか?
それは私たちが、無意識に「自分にとってどうか」で世界を分けて見ているからです。

役に立つか、危険か、心地よいか、不快か

私たちは常に、「よい/わるい」「有用/有害」と価値づけをしながら世界を見ています。

世界はそのまま存在しているのではなく、生き物の「力」によって区切られ、意味づけされることによって、個々の世界がつくられています。

世界はそれ自体としては存在しない

世界は「それ自体」として存在している。
「目の前に世界があるから、私に世界が見えている。」その考え方を本体論といいます。

この考えは、とても、自然で当たり前の考え方です。

この順番をひっくり返し、世界はそれ自体としては存在せず、生き物の「実存世界」(生成の世界)だけが現実存在しているとして、本体論を否定したのがニーチェです。

この"転回"が、なぜ大切なのか?
ここでもう一度、先ほどの学校のイラストを見てみましょう。

※人の言葉の意味(生きている世界観)は、他人には見えない

会話の中で誤解が生まれるなんて当たり前なんだ!

同じ言葉で表現してても、その言葉の背景にある世界観は、人それぞれまるで違うんだから、誤解が生まれるなんて当たり前だよな!

そう考えると、逆に、同じ世界を生きていると信じている方が不思議に思うくらいだ。

人の話を聞かなければいけない理由がわかるわ!

それぞれが世界を解釈しているとしたら、世代が違う人と、常識や感性に違いがあるのも当然ね。

私の普通が、相手にとっては、非常識なんてこともあるのね。

言葉の意図を聞く努力をしないと、相手の言っている真意には近づけないわね。

水掛け論の根っこにあるもの

水掛け論の根っこには、「同じ世界をみている」→「正しい世界観がある」
という前提があることがわかってきましたね。

それぞれの立場から世界を見ている――
その前提に気づかないまま、感性の違う人や利害が食い違う人と話すと
「私はまともだけど、相手は偏っている。」「あの人の感性は古い。私のほうが正しい。」と、
いつまでも平行線で、イライラするばかりですね。

「私もあなたも、それぞれに世界を作っている」ことに気がつけば、
相手の世界観を理解しようとすることがいかに重要かがわかってきます。

次回は、現象学的視点と普遍認識です。「みんなといい関係を作る」ヒントがあるかもしれません。
お楽しみに!

今回のおさらい

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引用・参考
竹田 青嗣著
『新・哲学入門』(講談社現代新書)
「第二章 哲学と認識問題」
をもとに整理・要約したものです。