水掛け論の根っこ

※水掛け論: 自分の意見ばかり
言い合って、話が進まない議論

理解し合うため?
言いたいだけ?
#2

本体論の解体

この理由がわかるかも!?

  • 飲み会の後
    喋りすぎたと落ち込む

  • 話をするといつも
    モヤモヤする人がいる

  • 話をするといつも
    元気をもらえる人がいる

  • 同世代・同人種で
    群れたがるワケ

  • 本当に話が通じない
    と思う人がいる

  • 昔は嫌いだった人と
    今は仲良がいい

  • 阿吽の呼吸で
    通じる人がいる

  • 話せばわかるは嘘
    離せばわかる

人間の欲望の本質は「自己価値の確保」

ヘーゲルという哲学者が言うように、人間の欲望の本質は自分の存在価値を確認することです。
大雑把に言って、動物の欲望は「身体の欲望」ですが、人間は「自己価値」への欲望です。
「自己価値」とは他人から立派な存在として認められる ことです。

まず、それをふまえて、人との関係を築く上で重要な「対話」について考えていきましょう。

夫婦で実家の話をすると、いつもこじれる。

お互い自分の家の常識を押し付け合うばかり。
結局、話せば話すほど、溝が深くなってしまいます。

決めつけられてウンザリ・・・

知り合いのおばさんに、子どもの悩みを喋ったら、
ろくに話も聞かずに「あなたが悪い」と決めつけられました。
自分が子育てをしていた頃の常識ばかり並び立て、こちらの言い分は全く届きません。

そもそも、みんなが使っている「言葉」の意味って同じ??

例えば、会話の中で「学校」という言葉を使った時、それぞれが持つイメージって同じでしょうか?

※ 同じ「言葉」でも、
立ち上がるイメージは人それぞれ違う。

私たちが使う「言葉」の意味(認識)は人によって違う

全ての言葉には、一般的な意味とは別に、それを使う人の欲望や経験、状況に根差した、
独自の認識が必ず含まれているのです。

妻の言いたかったことと、僕の解釈がズレていたのか

「妻の発している言葉」を「僕のあたりまえ」で受け取っていたけれど、もしかしたら、妻は 全然別のことを言おうとしていたのかも知れない な。

私は話を聞いて欲しかっただけなのかも!

確かに、相手も私の意見を聞く姿勢がなかったけれど、思い込んでいたのは私も同じだったかも。

それにあの時は、アドバイスが欲しかったわけじゃなくて、ただ話を聞いて、あなたは悪くないて言って欲しかっただけなのかも。素直にそう言えばよかった!

次は「人が見ている世界」
について、見ていきましょう。

例えば同じ犬でも、

• 犬が好きな人には「かわいい」
• 噛まれた経験のある人には「こわい」

同じ対象なのに、見ている世界が違います。それはなぜでしょう?

それぞれが自分の世界を、自分で作っている。

それは私たちが、無意識に「自分にとってどうか」で世界を見ているからです。

役に立つか、危険か、心地よいか、不快か
私たちは常に、「有用/有害」「よい/わるい」と価値づけをしながら世界を見ています。

ここでもう一度、先ほどの学校のイラストを見てみましょう。

同じ対象を語っているけれど、
それぞれ「認識」が違う。

そして、人の言葉の意味
(生きている世界観)は、
他人には見えない。

水掛け論の根っこにあるもの

水掛け論の根っこには「私と相手は同じ世界を生きている」という無意識の前提があることがわかってきましたね。

世界とは、それぞれの立場から解釈して作り上げたそれぞれ個別のものである――
その前提に気づかないまま、感性の違う人や、利害のある人と話すと
「私はまともだけど、相手は偏っている。」「あの人の感性は古い。私のほうが正しい。」と、お互い頑なになって、いつまでも平行線でイライラするばかりですね。

会話の中で誤解が生まれるなんて当たり前なんだ!

同じ言葉で表現してても、その言葉の背景にある世界観は、人それぞれまるで違うんだから、誤解が生まれるなんて当たり前だよな!

そう考えると、逆に、同じ世界を生きていると信じている方が不思議に思うくらいだ。

人の話を聞かなければいけない理由がわかるわ!

それぞれが世界を解釈しているとしたら、世代が違う人と、
常識や感性に違いがあるのも当然ね。
私の普通が、相手にとっては、非常識なんてこともあるのね。

言葉の意図を聞く努力をしないと、相手の言っている真意には近づけないわね。

「想像する」「聞く」「伝える」の繰り返し

私もあなたも、それぞれに違う世界を持っているのなら、相手の世界を知る努力をすることが必要不可欠になります。
さらに、人にとって、当たり前すぎることは、意識していないので「言葉」に現れていないことがほとんどです。言葉にする術を持っていない人もいます。語られることよりも、語られないことを知ろうとすることが大事かもしれません。

相手の言葉の奥には、私の知らない相手の世界があることを前提にしながら、相手の話を聞いてみる、次に私の見えている世界を丁寧に伝える、この繰り返しが必要になりますね。
その繰り返しの中で、お互いが納得できる視点に出会えれば最高ですね。

自分以外の世界を覗いて、感じて、豊かになって、また自分の視点に帰ってくる。
そうして、 人間関係のみならず、趣味や仕事でも、豊な関係を築いていくことができる。
それが、皆さんの自信となり「自己価値」を感じさせてくれるようになる
ことを願っています。

この理由わかりそうですか?

  • 飲み会の後
    喋りすぎたと落ち込む

  • 話をするといつも
    モヤモヤする人がいる

  • 話をするといつも
    元気をもらえる人がいる

  • 同世代・同人種で
    群れたがるワケ

  • 本当に話が通じない
    と思う人がいる

  • 昔は嫌いだった人と
    今は仲良がいい

  • 阿吽の呼吸で
    通じる人がいる

  • 話せばわかるは嘘
    離せばわかる

次回は、現象学的視点と普遍認識です。「新しい視点」を作るヒントがあるかもしれません。
お楽しみに!

※以下、学問的に興味のある方は、読み進めてくださいね。

「存在・認識・言語」についての哲学をご紹介します。

私たちと同じように、哲学者も「実際にあるもの、見ているもの、言葉」を巡って、長い間頭を悩ませているんですね。

水掛け論の根っこを解消

本体論の解体

世界=客観を正しく認識できる?

ヨーロッパの近代哲学と現代哲学をとおして、最大の難問である認識問題とは、世界=客観を正しく認識できるか、という問いです。

ギリシャ哲学以来、現代まで「認識問題」は、ギリシャのソフィスト、ゴルギアスの「存在と認識」の三つの論証から抜け出せていません。

ゴルギアステーゼ

(1)およそ存在を証明することはできない。それゆえ何ものも存在するとはいえない。

(2)仮に存在があるとしても、人間には認識(思考)できない。

(3)仮に存在が認識されたとしても、人間はそれを言葉にすることができない。

構図化すると

「存在」≠「認識」≠「言語」

存在・認識・言語はそれぞれ存在本質が異なるため、完全に一致することはない。

これがゴルギアスの「認識の不可能性」の要諦です。

「存在本質が異なる」とは

役割や成り立ちがまったく違うということです。

存在は「あること」。
認識は「それをどう受けとめるか」。
言語は「それをどう言いあらわすか」。

たとえば、目の前の木(存在)を見たとき、私たちはそれを頭の中でイメージや概念として理解します(認識)。
しかし、その理解を「木」という言葉で表すとき、そこにはすでに省略や単純化が入り込みます(言語)。
このように、世界そのもの → 心の中の理解 → 言葉による表現、という三つは段階ごとに性質が違うため、完全にぴったり重なることはない

似た「絵」を描くことができるだけ。

「言葉の世界の行き詰まり」

「存在・認識・言語が一致することはない」とは、私たちの理解や言葉は、つねに世界そのものとはズレを含んでいることです。

この論説を乗り越えられず、哲学は長い間、客観認識(普遍認識)の不可能性が解決できないままでいました。
その結果「人それぞれだから、正しさなんてない」という相対主義や
「自分で勝手に決めた検証不可能な結論で正しさを主張する」独断論などの、諸説の乱立と対立がいたるところに拡がりました。

※「存在・認識・言語が一致しない」≠「普遍認識の不可」ではありません。
普遍認識とは 立場や感じ方が違っても、対話を通してみんなが了解できる認識のことです。
#3「現象学的態度」#4「普遍認識」でも探っていきましょう。

本当のことと、わかることと、言っていることはズレる。

ここで、私たちが考える一般的な「認識の前提」について整理しておきます。

・世界は「それ自体」で存在している。
・その本当の姿を、正しく知ることが大事。
・主観(私の見方)と客観(本当の世界)が一致すればそれが真理。

つまり、まず「世界そのもの」があって、その後に、人間が認識する

私たちも、ゴルギアスを含むこれまでの哲学者たちも、世界をそう考えています。 世界は「それ自体」として存在している。 「目の前に世界があるから、私にそれが見えている。」その考え方を本体論といいます。
とても自然な見方です。

この根本的な前提をひっくり返して、認識問題を解決する理論を打ち立てた人物がいます。ニーチェです。そのことの意味ちゃんと理解している人は、実はあまり多くはありませんが、とっても大きなパラダイム転回です。

ふつう私たちは、「世界はまずそこにあって、私たちがそれを見ている」と思っています。
しかしニーチェは、まったく逆のことを言いました。

世界はそれ自体として「存在」してはいない。

まずあるのは、生きようとする「力」である。

ここでいう「力」とは、生きようとする生き物の身体の力(欲望) のことです。
この生きようとする力によって、世界は「解釈」されてできている。

大切なことは「世界それ自体」なるものは、まったく存在しせず認識不可能なものということではなく、
ただ、どんな意味でも認識対象ではありえないものであるということです。

※この後、ハイデガーは、そもそも「認識するとはどういうことか」という哲学の最も根本の問いを立てました。
そして、この「認識問題」をフッサールは「現象学的還元」の方法によって解明しました。次回みていきます。

なぜ、この「本体論の解体が」大切なのか

ことがらや世界観を考える時には、「本体」(絶対的な正解)を前提に置かないことが、必要不可欠なのです。
たとえば、キリスト教を信仰する人の世界確信と、仏教の信者の確信、どちらが正しいかと問うことは、「本体」(絶対的な正解)を前提にしていて、検証の可能性がどこにもなく認識論的に無意味です。
しかし、両者がなぜ異なった世界観の確信をもつのか、また、なぜ絶対的な正解がないと言えるのかを問うことは、有意味ですね。

次回は、現象学的還元と普遍認識です。
お楽しみに!

今回のおさらい

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引用・参考(哲学箇所)
竹田 青嗣著
『新・哲学入門』(講談社現代新書)
「第二章 哲学と認識問題」
をもとに整理・要約しました。
参考
竹田 青嗣著
『自分探しの哲学』(主婦の友社)
「第2章 若者の哲学」