意味のないことばかり
子供がします。
子供にとっては意味がある、主体的な学びの機会です
親から見て無意味でも、子どもにとっては感覚を確かめたり、
反応を試したりする、主体的な学びや成長の機会です。
なので、危険なことだけは、はっきりダメと伝えて、それ以外は子どもの成長を見守ればいいと思いますよ。
子供には、「子供の意味」があるんですね。
二つの「価値と意味」
※意味:それを「どう理解しているか」
〜 実存編 〜
こんなことありませんか??
意味のないことばかり
子供がする
「ちょっと褒められる」と
ものすごく有頂天になる
「ちょっと否定される」と
ものすごく疲れる
「でも、、」
が口癖
自分の意見を言って
いつも人とぶつかる
くだらない話が
一番面白い
部下も子供も
思い通りに動かない
君中心に世界があるね
と言われる
意味のないことばかり
子供がする
「ちょっと褒められる」と
ものすごく有頂天になる
「ちょっと否定される」と
ものすごく疲れる
「でも、、」
が口癖
自分の意見を言って
いつも人とぶつかる
くだらない話が
一番面白い
部下も子供も
思い通りに動かない
君中心に世界があるね
と言われる
誰もが 私の世界 を生きている。
意味のないことばかり
子供がします。
子供にとっては意味がある、主体的な学びの機会です
親から見て無意味でも、子どもにとっては感覚を確かめたり、
反応を試したりする、主体的な学びや成長の機会です。
なので、危険なことだけは、はっきりダメと伝えて、それ以外は子どもの成長を見守ればいいと思いますよ。
子供には、「子供の意味」があるんですね。
ちょっと褒められると
ものすごく有頂天になる
無数にある価値観や尺度の一つを、認めてもらえたんですね。
褒められてうれしいのはみんなです。人は誰でも承認欲求を持っているのは、それが自己肯定になるからです。
褒められて素直に喜んでもいいのですが、調子に乗りすぎないことです。人を不快にさせない程度に喜ぶ、あるいは心の中でかみしめる。
褒められた時、人はそれぞれの価値観を持っているのだから
あくまでもその人の評価として受け止めるといいですよ。
私の全てを褒められたような感覚に陥らないようにします。
「ちょっと否定される」と
ものすごく疲れる
一つの意見(助言)だと受け止めるといいですよ。
「ちょっと否定される」とものすごく疲れるのは、それが自分の存在価値を否定されたと感じるからです。
真面目に生きようとしている人、真剣に人の話を聞こうとしている人ほど、そう受け止めがちです。
あなたの価値の否定ではなく、あなたの行動や、在り方に対する一つの意見だと受け止めるといいです。
自分の存在価値を否定ではなく、行動の「助言」として受け止めます。
人の話に対して
「でも、、」と反論してしまう
世界の見え方や、「いいこと」は一つではないですよ。
「でも、、」が口癖の人は、相手が間違ったことを言って自分を攻撃していると受け止め、自分が正しいと主張したがる癖がある人です。
「正しさ」があるという前提をおかずに、双方が「納得して折り合える」ように、努めるのが対話や議論の目的です。
「正しさ」があるという前提を捨てて、まず、聞いてみます。
自分の意見を言って
いつも人とぶつかる
自分の価値観と相手の価値観が一致していなくても、
ぶつからなければいいのではないですか?
否定されたくないという不安や自己肯定(承認)欲求が強すぎると、相手の意見をちゃんと聞かずに「でも」と反論し、人とぶつかりやすくなります。ですから双方が「まず、相手の意見を聞いてみよう」そして「確かにそうだね。」と前置きしてから、自分の考えや意見を言うようにするといいのでは?
僕に「考え」があるように、人の数だけ「考え」があるんですね。
くだらない話が
一番面白い
一般的には生産的な意味のないことでも、
共感することに価値があるんですね。
我々の日常生活は何かの役に立つ会話が前提になっています。くだらない話が一番面白いのは、気楽で警戒感なしの時間を共有する幸せ感があるからではないでしょうか?私は学生時代に親友と「拾った物を密かに自分の物にすること」をなぜ「ねこばば」というのか気になってその語源を調べたことがありました。その説明をイメージしてお腹がよじれるほど笑ったことがあります。
僕にとっての意味に、幸せを感じているんですね。
部下も子供も
思い通りに動かない
部下も子供も自分の思いがある
多くの経験を積むと自分の方法や知見に自信が出てきます。それで、部下や子供がとんちんかんな行動をしているように見えるのです。そのイライラを減らす方法は「部下も子供も自分の思いがある」と考えてはいかがでしょうか。つまり自分の思い通りに動かないのが当たり前なんだと考えるといいのでは?
部下も子供も
自分の思いがあるもんね
君中心に世界があるね
と言われる
周りの人にも、気遣いを
人は誰でも自分を世界の中心に置いて生きているのだから当たり前のことです。「君中心に世界があるね」とは、たぶんもうちょっと周りの人(私)に気遣いをしてほしいという気持ちで言われているのでしょう。自分のことだけでなく相手のことも思いやれるようになると「君中心に世界があるね」と言われる機会が減るのではないでしょうか。
一緒にいる人のことを気遣いできる余裕を持ちたいな。
「価値」や「意味」って何?
たとえば、2万円するクラシックコンサートを聞きにいっても、
興味を持てなければ「価値がなかった」と言いますよね。
また、上司からの忠告に、言葉の意味が理解できても
納得がいかない場合は「意味がわからない」と思いますね。
よく考えてみると、私たちが何気なく使っている「価値」や「意味」は、
状況によって意味合いが変わっているようですね。
「おにぎり」の認識を例にとって「価値と意味」について見ていきましょう。
自分を理解するために役立つ、構造が見えてくるはずです。
〜 私たちの認識 〜
「白い、三角形のものが、目に入った時」
一般的な「意味と価値」
誰もが持っている「一般的な認識」
対象を意識して見た時
「おにぎり」というラベル的な意味や
「200円くらいで、美味しい」というような、価値的な要素を含んだ
一般的な意味や価値が立ち上がります。
しかし、私たちは 一般的な認識だけを受け取っているわけではありません。
〜 私の現実世界 〜
私たちはそれぞれ、
今ここで現実の世界を体験しながら、
誰とも交換の効かない人生を
生きています。
この 「私の現実世界」を「実存」
と呼びます。
私にとっての「価値と意味」
その時々に立ち上がってくる(向こう側からやってくる)
実存的な、おにぎりの「価値と意味」を観察していきましょう。
※価値 =「欲望の強さ」
| シチュエーション | 価値 | 意味 | |
|---|---|---|---|
お腹が空いている時 |
美味しそう!
|
お茶を入れて→テーブルに座って→手で持って食べたいもの。 |
|
お腹いっぱいの時 |
なし
|
なし |
|
BBQの時 |
焼いて食べたい
|
醤油を塗って→これを食べたい人のためにも余分に焼いておこうと考えて→お箸を使って食べたいもの。 |
|
自分で育てたお米で作った時 |
嬉しい、大切
|
これまでの、農作業の苦労が実った、嬉しさが詰まっている→思い出も一生に味わえる→最高のもの。 |
|
| 「実存」= 私の現実世界 | 欲望の強度 | 目的達成の為に |
|
環境・状況によって変化し続けている
実存的な「価値と意味」
「世界はおなじ、世界は一つ」は嘘?!
おにぎりにを目にした時に立ち上がる意味は
一人の人間の中でさえ、状況次第で、まるで違っていましたね。
今、目の前にある世界は、「事実」と考えるより
哲学的に
言うと…
ニーチェという哲学者は、世界それ自体があるのではなく、
生き物の「力への意志」があるだけだと言いました。
それぞれの欲望や関心に相関して、世界は作られているということです。
では、なぜ私たちは、一般的な意味や価値を知っているの?
みんながそれぞれに、その時々の内面世界で対象を認識していることがわかりました。
では、私たちが共通して持っている、客観的な意味価値はどこから来ているのでしょうか?
※以下、学問的に興味のある方は、読み進めてくださいね。
実証的な「事実学」と区別して、人文領域の認識を「本質学」に
18-19世紀の科学の急速な進歩は世界の一切を科学的に解明-認識できるという観念を増大させ、科学信仰が強固となりました。
自然の世界と、人間の価値や文化の世界では、そもそも成り立ち方が違います。
しかしその違いを見落として、自然科学のように客観共通認識を基礎として探求する方法を、人文の世界にも当てはめようとしました。
結果、人文の世界ではその方法がうまく働かずたくさんの論争が起こっています。
フッサールはこの事態の明瞭な自覚から、人文領域の認識を、実証的な「事実学」と区別して「本質学」と呼び、
その方法的基礎を「本質観取」の方法に求めました。
事実学(自然・物の領域)
計測技術の発達によって、自然の諸側面は数学化できるようになった。
自然世界は「誰にとっても同一の存在様態として」デジタル表記で共通認識できる体系を持った。
【 学問の例 】 • 物理学 • 化学 • 生物学 • 天文学 • 地学 • 医学 • 工学 • 数学 • 情報科学
【 日常の例 】 • 天気予報 • 新しい薬の開発 • 橋や建物を作る • 宇宙ロケット
本質学(世界観・事柄の領域)
絶対的な客観的実体・事実というものは存在せず、 あらゆる認識行為は「主体による生活世界の“主観的な確信”である」と考える、これを現象学的態度という。 本質領域(人文領域)の認識方法として「本質観取」を展開した。
本質観取とは、経験を内省することで、世界観や信念がどのように成り立っているのかという構造を見抜く方法である。
(※それにより、この領域ではそもそも「正しい世界観」を決めることはできないことが明らかになる。)
【 学問の例 】
• 哲学
• 倫理学
• 美学
• 宗教学
• 社会学
• 民俗学
• 歴史学
• 文学
• 芸術
【 日常の例 】
• 何が幸せか考える
• 恋愛や友情
• 文化や伝統
• 映画や音楽
• 物語
• 生き方の悩み
つまり、人間の意味や価値を考える世界
実存的な価値-意味の一般理論
こうして、分けてしまうと、なんとも当たり前のようですが、フッサール以前から現在に至るまで、人間の世界観の領域を考える方法と、自然科学を考える方法が使い分けられていません。
そのフッサールの築いた方法論で、ニーチェの「力相関性(生き物は生きようとする力でそれぞれに世界を解釈している)」の理論を展開させ、人間の欲望から生まれる価値-意味の一般理論を提唱したのが竹田青嗣の欲望論です。
以下、少し詳しくみていきましょう。
現実世界を生きる人間の「意味」と「価値」の本質
私たちが、何かを知覚をする時、対象の「一般意味・価値」だけを受け取るのではない。
われわれが現実世界を生きるかぎり、どんな体験も、対象の知覚を端緒としてたえずさまざまな情動-衝迫(欲望)が喚起される。
そして、対象への欲望の強度に応じてさまざまな実存的な※企投が行なわれる、という構造をもっている。
※企投については下記参照
知覚→情動生起 (欲望)→対象の価値-意味の構成→判断と企投(行動)
という連関こそ、生主体の体験の根本的な基礎構造にほかならない。
それゆえ、「意味」と「価値」の本質は、こうした体験の本質構造から洞察されねばならないのである。
欲望の強度が対象の「価値」を生成し、
そこから意味の連関が現われる。
目的達成の為に
考えられるあらゆること
「このリンゴを食べたい」という情動-衝迫が喚起された時、
それが最終の目的「リンゴを食べること」(目的指標)を生成し、この目的の達成にいたるまでのあらゆる関連性の了解が実存的意味。
欲望の強度
リンゴを見た時に、まず生じる「食べたい」や「いらない」という欲望の強さが実存的価値。ニーチェも、価値とは「力の量(欲望の強度)」によって測られると言っている。
【 被投的 企投 存在 】
人は常に、可能性に向かい未来を切り開いている
被投性 – 投げ出された存在
私たちは自分の意思に関係なく、特定の時代・環境・家族に「投げ出されて」存在していること。
・生まれる場所や時代、身体的な特徴を選べない。
・私たちは既にある家族、文化、社会的な価値観の中にいる。
企投 – 自分の可能性を未来に向けて投げ企てる
人間は常に、過去や環境に縛られているにもかわらず、常に未来の可能性をめがけて行為している。
・自分がしたいことのために行動を起こす。
・限られた状況の中でも、新しい可能性を見つけられる。
実存世界の「意味」:目的達成の為に考えられるあらゆること
実存世界の「価値」:欲望の強度
主体に生じる欲望の強度が対象の「価値」を生成し、そこから意味の連関が現われる。
人は常に、可能性に向かい未来を切り開いている
被投性 : 私たちは自分の意思に関係なく、特定の時代・環境・家族に「投げ出されて」存在していること。
企投 : 人間は常に、過去や環境に縛られているにもかわらず、常に未来の可能性のために行為している。
では、なぜ私たちは、客観的な「おにぎり」の意味や価値を知っているの?
みんながそれぞれに、その時々の内面世界でおにぎりを認識していることがわかりました。では、誰の頭の中にもある、客観的な「おにぎり」の意味価値はどこから来ているのでしょうか?
次回、【 二つの「価値と意味」一般編 】で探っていきましょう!
