二つの「価値と意味」

僕にとっての「価値と意味」
社会にとっての「価値と意味」
#1

  実存じつぞんと一般 (1/2)

〜 実存編 〜

この悩みの正体は?

  • 自分が認めてない人を
    見下してしまう

  • 自分が認めている人は
    崇めてしまう

  • 「ちょっと褒められる」と
    ものすごく有頂天になる

  • 「ちょっと否定される」と
    ものすごく疲れる

  • 私がいいと思うものを
    そう思わない人はバカだと思う

  • 「本当の自分」を周りの人に
    表明するのが怖い

  • 自分のやりたいことが
    わからない

  • パートナーが
    思い通りに動かない

  • 君中心に世界があるね
    と言われる

「ありのままでいい」?「変わらなきゃいけない」?

「ありのままの、自分でいいの〜🎵」そんな歌が流行りましたね。その一方、
「変わらなくちゃ」というメッセージもよく目にしますね。

一体、どっちなんだ?!と混乱しますね。
大丈夫、どっちも本当です。
腑に落ちれば、すっきり納得することができますよ。
さあ!見ていきましょう!

人の胸に響くような、言葉を語れる人になりたい。

僕は人と話をするのが得意だ。
けれど、「言語は明瞭だけど、意味がわからない」と言われた。
意味のあることをわかりやすく伝えられる、面白い人になりたい。

「できるくせに、できない」子供にイライラする。

意味のない遊びやイタズラなどの行動は、複雑なことでも素早くできる。
だけど、意味のある幼稚園の用意などは、単純なのに全然できるようにならない。

できるはずのなのに、さっさとしない 子供にイライラします。

「価値」や「意味」って何?

そもそも、私たちが普段使う「価値」や「意味」とは何でしょうか?

たとえば、客観的には価値ある情報が得られる講演を聞きにいっても、
興味を持てなければ「価値がなかった」と言いますよね。

一方で、友達と大笑いした時間は、
どれだけくだらない内容でも

「意味のない時間だった」とは感じません。

よく考えてみると、私たちが何気なく使っている「価値」や「意味」は、
状況によって意味合いが変わっているようですね。
さあ、これを紐解いていきましょう。

〜私たちが認識している
「価値と意味」〜

一般的な「価値と意味」

自分だけの「価値と意味」

私たちは世界に対して、みんなと同じ「価値や意味」だけを持っているわけではありません。

私たちには、自分だけの感情や意思があります。
対象に対して、自分だけの「価値や意味」を感じています。

「 実存 」

〜 私の中の世界 〜

私たちはそれぞれ、
今ここで現実の世界を体験しながら、
誰とも交換の効かない人生を
生きています。
この 「私の中の世界」「実存」
と呼びます。

その時々に立ち上がってくる、私の中にある「価値と意味」

りんごを見た時を例に、「私の中の世界」で立ち上がってくる
実存的な「価値と意味」を観察していきましょう。

空腹時

食べたい!
洗って、包丁で皮を剥いて、食べよう。

満腹時

食べたくない。
今はいらない。

空腹時、隣でご飯を作ってくれている時

食べたい!
今すぐ食べようかな?
でも、今食べたら、怒られるかな?
それに、ご飯も美味しく食べられないな。
今は我慢しよう。

私の中の認識は、経験、身体、環境
などによって常に変化し続ける。

私の中の世界(実存)

実存の「価値」

何かを見たり感じたりすると、 そこから「ほしい」「やりたい」「いや」といった気持ちが自然にわいてきます。 この欲望の量が、実存の「価値」です。

実存の「意味」

そして、欲望を感じた時 「どうしよう」「こうしよう」「やめよう」という行動のイメージが自然に立ち上がってきます。 この欲望を達成するために考えるあらゆることが、実存の「意味」です。

「人の言葉」と「僕の意思(意味)が入った言葉」がある

「言語は明瞭:一般的意味の使い方は成立している。」
「意味がわからない:僕が感じている価値と意味が伝わっていない。」ということか。
人の胸に言葉を届けたいのであれば、人の言葉を借りてそれらしいことを語るよりも、自分の思っていることをつたなくても表現することが、第一歩かもしれないな。

「できる能力がある」と「すぐできる」は別物なのね。

私と息子では「価値と意味」が違うのね。
イタズラだけ速いのは、彼にとってイタズラは、
やりたい(価値) があるから、何をするか(意味)がわかる。

「やらされること」は「やりたくない」が立ち上がるし、
「初めてのことは」は「失敗が怖い」が立ち上がっているし、
他人からは簡単そうに見えることでも、時間がかかるわけね。

「客観的な世界」と
「私の中の世界」とは違う

例えば、自分で買ったチョコレートと、好きな人からもらったチョコレートでは、意味も美味しさも違うでしょう。
私たちの現実はいつも、言葉だけで片付けることはできませんね。

対象への想い、環境、経験や身体によって、私たちの内面世界は作られているのです。
実存(内面)の世界は人それぞれ、その時々で異なっているのです。

誰もが「私だけの価値や意味」を持っていて、一般的な価値観で他者がどうこう判断できるものではないのですね。

この悩みの正体、
見えてきましたか?

  • 自分が認めてない人を
    見下してしまう

  • 自分が認めている人は
    崇めてしまう

  • 「ちょっと褒められる」と
    ものすごく有頂天になる

  • 「ちょっと否定される」と
    ものすごく疲れる

  • 私がいいと思うものを
    そう思わない人はバカだと思う

  • 「本当の自分」を周りの人に
    表明するのが怖い

  • 自分のやりたいことが
    わからない

  • パートナーが
    思い通りに動かない

  • 君中心に世界があるね
    と言われる

では、なぜ私たちは、一般的な意味や価値を知っているの?

みんながそれぞれに、その時々の内面世界で対象を認識していることがわかりました。
では、誰の頭の中にもある、客観的な意味価値はどこから来ているのでしょうか?

次回、【 二つの「価値と意味」一般編 】で探っていきましょう!

二つの「価値と意味」 一般編

※以下、学問的に興味のある方は、読み進めてくださいね。

実証的な「事実学」と区別して、人文領域の認識を「本質学」に

18-19世紀の科学の急速な進歩は世界の一切を科学的に解明-認識できるという観念を増大させ、科学信仰が強固となりました。

自然の世界と、人間の価値や文化の世界では、そもそも成り立ち方が違います。
しかしその違いを見落として、自然科学のように客観共通認識を基礎として探求する方法を、人文の世界にも当てはめようとしました。
結果、人文の世界ではその方法がうまく働かずたくさんの論争が起こっています。

フッサールはこの事態の明瞭な自覚から、人文領域の認識を、実証的な「事実学」と区別して「本質学」と呼び、
その方法的基礎を「本質観取」の方法に求めました。

事実学(自然・物の領域)

計測技術の発達によって、自然の諸側面は数学化できるようになった。
自然世界は「誰にとっても同一の存在様態として」デジタル表記で共通認識できる体系を持った。

【 学問の例 】 • 物理学 • 化学 • 生物学 • 天文学 • 地学 • 医学 • 工学 • 数学 • 情報科学

【 日常の例 】 • 天気予報 • 新しい薬の開発 • 橋や建物を作る • 宇宙ロケット

本質学(世界観・事柄の領域)

絶対的な客観的実体・事実というものは存在せず、 あらゆる認識行為は「主体による生活世界の“主観的な確信”である」と考える、これを現象学的態度という。 本質領域(人文領域)の認識方法として「本質観取」を展開した。

本質観取とは、経験を内省することで、世界観や信念がどのように成り立っているのかという構造を見抜く方法である。
(※それにより、この領域ではそもそも「正しい世界観」を決めることはできないことが明らかになる。)

【 学問の例 】
• 哲学 • 倫理学 • 美学 • 宗教学 • 社会学 • 民俗学 • 歴史学 • 文学 • 芸術

【 日常の例 】
• 何が幸せか考える • 恋愛や友情 • 文化や伝統 • 映画や音楽 • 物語 • 生き方の悩み
つまり、人間の意味や価値を考える世界

実存的な価値-意味の一般理論

こうして、分けてしまうと、なんとも当たり前のようですが、フッサール以前から現在に至るまで、人間の世界観の領域を考える方法と、自然科学を考える方法が使い分けられていません。

そのフッサールの築いた方法論で、ニーチェの「力相関性(生き物は生きようとする力でそれぞれに世界を解釈している)」の理論を展開させ、人間の欲望から生まれる価値-意味の一般理論を提唱したのが竹田青嗣の欲望論です。

以下、少し詳しくみていきましょう。

現実的な世界を生きる人間の「意味」と「価値」の本質

私たちが、何かを知覚をする時、対象の「一般意味・価値」だけを受け取るのではない。
われわれが現実的な世界を生きるかぎり、どんな体験も、対象の知覚を端緒としてたえずさまざまな情動-衝迫(欲望)が喚起される。
そして、対象への欲望の強度に応じてさまざまな実存的な企投が行なわれる、という構造をもっている。

※企投については下記参照

知覚→情動生起 (欲望)→対象の価値-意味の構成→判断と企投(行動)

知覚→情動生起 (欲望)→対象の価値-意味の構成→判断と企投(行動)

という連関こそ、生主体の体験の根本的な基礎構造にほかならない。
それゆえ、「意味」と「価値」の本質は、こうした体験の本質構造から洞察されねばならないのである。

実存的な「価値と意味」

欲望の強度が対象の「価値」を生成し、
そこから意味の連関が現われる。

「意味」

目的達成の為に
考えられるあらゆること

「このリンゴを食べたい」という情動-衝迫が喚起された時、
それが最終の目的「リンゴを食べること」(目的指標)を生成し、この目的の達成にいたるまでのあらゆる関連性の了解が実存的意味。

「価値」

欲望の強度

リンゴを見た時に、まず生じる「食べたい」や「いらない」という欲望の強さが実存的価値。ニーチェも、価値とは「力の量(欲望の強度)」によって測られると言っている。

マルティン・ハイデガー

【 被投的 企投 存在 】

人は常に、可能性に向かい未来を切り開いている

被投性 – 投げ出された存在

私たちは自分の意思に関係なく、特定の時代・環境・家族に「投げ出されて」存在していること。

・生まれる場所や時代、身体的な特徴を選べない。
・私たちは既にある家族、文化、社会的な価値観の中にいる。

企投 – 自分の可能性を未来に向けて投げ企てる

人間は常に、過去や環境に縛られているにもかわらず、常に未来の可能性をめがけて行為している。

・自分がしたいことのために行動を起こす。
・限られた状況の中でも、新しい可能性を見つけられる。

今回のおさらい

では、なぜ私たちは、客観的な「りんご」の意味や価値を知っているの?

みんながそれぞれに、その時々の内面世界でりんごを認識していることがわかりました。では、誰の頭の中にもある、客観的な「りんご」の意味価値はどこから来ているのでしょうか?

次回、【 二つの「価値と意味」一般編 】で探っていきましょう!

二つの「価値と意味」 一般編
引用・参考(哲学箇所)
竹田 青嗣著
『新・哲学入門』(講談社現代新書)
「第三章 方法としての本質洞察」
をもとに整理・要約しました。